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死を「自分のこととして考える」時間

[2020.04.08]

在宅診療が好きで、看取りまで行っています。

亡くなる姿にこそ、その人の人生が集約されると言われますが、実際、子や孫に囲まれ、皆がおいおいと泣いて、ありがとうと感謝の言葉を述べる中で死亡宣告をする時があります。お金や学歴といった指標とは全く関係なく、その姿だけで、その方の人生はとても豊かで、幸せなものであったとうらやましく思いますし、自分もそんな最期を迎えたい。心からそう思えます。そして、その場に同席させてもらえる医師という仕事のありがたさを感じます。

新型コロナウイルスはいろいろな哲学的思考を人類にもたらしてくれます。

この病気では「誰にも会えず、たった一人で死に立ち向かわなければいけない」ことが報道されました。感染防止のため病状悪化があっても、親族への同席が認められず、死を迎えた後も、火葬されたのちに親族に遺骨が返されるとのことでした。(志村けんさんの報道による)

人工呼吸器が必要な場合、患者さんには麻酔がかけられ意識が無い状態で呼吸管理がなされます。つまり、コロナ肺炎と診断がついた段階で、面会が制限され、呼吸状態が悪化しても、誰の見舞いもないまま麻酔がかけられ、機械が装着され、最悪の場合そのまま目も覚めず、誰にも会えずに「死んでしまう」ことになります。これほど、悲しい亡くなり方は、ちょっとほかに思い付きません。罪を犯した人ですら、病院で治療を受けていれば親族が呼ばれることが普通ですから。

ブログにはあまり引用を載せないのですが、どの世代の方が読んでも響くような丁寧な記事が紹介されていましたのでご紹介します。この非常事態宣言で時間のある時に、特に若い世代、死を考えることが無い世代でも自分や大事な人の「死」を考えるきっかけになればいいと思います。

YAHOOニュース内の「加藤順子」さんの記事(私たちは、新型肺炎の「看取りのない死」と「送りのない死」をどこまで想定できているか)↓

https://news.yahoo.co.jp/byline/katoyoriko/20200408-00172090/?fbclid=IwAR3IEnqzYTy2_bC7vuHHqpYPB-2uLuOfM7CaPXK6ddzvlFcQsEiVAHYR8xU

 

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