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「最後まで診る」ことの責任と難しさ

[2023.06.26]

「先生に家で看取ってもらえるんでしょ、ああ、これで安心して死ねます。」

高齢のひとり暮らし、入院はとにかくいや、何があってもどうなってもいいので、自宅で過ごしていたい。Oさんは、この言葉をおっしゃった後、私に手を合わせて拝むような姿をされました。

お元気なOさんでしたが、月日を経るにつけ、足腰が弱くなり、耳が遠くなり、コミュニケーションも難しくなっていきました。入院が最善と思われる状況であっても、とにかく頻回に来院してもらい、Oさんも頑張って通院され、スタッフもみなOさんを気にかけながら、意思を最大限尊重し入院を避けた治療を続けてきました。

その後も、服薬や日付もわからなくなり、一人暮らしの限界も感じられるようになってきました。見守りの人達とも連絡を取り、次に何らかの病状変化や病気が起きれば、自宅で看取ることも含め、苦痛が無い限りは見守っていく方針を確認していました。治療の相談ができる親族はおられない方でした。

ある日、Oさんはある感染症にかかりました。外来で粘って強い薬を使っていても悪化が続きます。幸か不幸か、命に関わる重要臓器の感染ではないため、治療を行えば助かることが予想できました。しかし、あそこまで入院を嫌がっていたOさんです。苦しまなければこのまま在宅で看取っていくことも許されるのではないか?「本人の意思に沿った」診療はどこまでが許されるのか?迷いました。

結局、ご自宅に居るときに苦痛が強くなり、たまたま訪問した見守りの方の助けを借りて救急車で病院に搬送されました。

その後、病院主治医より在宅継続は困難と判断され、関連施設に入居、その後もお元気でおられると病院の方が教えてくれました。

Oさんの「治療」。手遅れになる前に治療につながって命が助かってよかった。医師の私はいまでも自信をもってそう思います。反面、あれだけ入院を嫌がっていたOさんの、あの手を合わせてお願いされた姿を思い出すと、人として・友人としての私は、入院を「させてしまった」ことに、もやもやした気持ちがどうしても残っています。

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患者さんのプライバシーを考慮し、出来事を修飾して記載しています。

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